Shinya

不安の共有

大変な出来事が起こった。第一報はラジオで聞いた。すぐに「大変なことが起こった」と思ったけど、それがどのように大変なのかはあまりよくわからなかった。ただ最初に思った「大変だ」という直感は当たっていると思う。

時間が経つにつれて何が起こっていたのかはわかった。繰り返される同じ内容のニュースに見飽きて、ようやくテレビを消してシャワーを浴びた。目の前にあるのはいつもの毎日で、情報を遮断していればなんてことない普通の日だ。でも、今日のニュースは、知った途端に心の中の何かを変えてしまう力を持っていた。目の前の生活は普通なのに昨日とは明らかに違っていて、そのことが不安だ。今日のことで何がどのようになっていくのか、社会にとってどのような出来事になるのか、日常を過ごす自分は何に気をつければいいのか、何を感じていたらいいのか、全くわからない。

歴史に学べば少しはわかるのかもしれない。けれど歴史は一番苦手だったしすぐに判断がつかない。勉強してみようと思う。過去にも今日みたいな出来事はあっただろう。そのあとどうなったのか。今はいろいろな人の言葉を読んで「そうか、そうか」と思っている。しかし時間は答えを見つけるように早く進むわけではないし、何より自分は今、生きている。そんなパターンは初めてで、この出来事について考えなきゃいけない。

少し安心しすぎているかもしれない。政治に求めることが少なくなってきていることは投票率の低さでもわかるし、今のままでいいという気持ちもわかってしまう。でもきっと、平和なようで平和でないし、安全なようで安全ではない。ロシアがウクライナに侵攻したときに「日本も思っているほど平和じゃない」と知り合いの自衛隊の方がぼそっと言ったことを思い出す。平和じゃない。その言葉を前に果たして今僕たちは何をする気が起きようか。きっとわからない。声を上げるのが正しいけれど、時間も労力も必要で常に無力感に苛まれるその方法を根気よく続けることができるだろうか。平和は維持できないことを前提にした方がいいのだろうか。平和を求めると堕落がはじまるというのは、まるで星新一の描く世界みたいだ。

平和じゃない社会を前に僕はひとまず不安を共有することとした。不安を感じている人はこの指とーまれ!だ。